今治で活躍している人にインタビュー
職人というと、「頑固一徹」「無口で仕事一筋」といったイメージだが、渡部一馬さんは、やわらかで静かな笑顔が印象的だ。令和3年度、卓越した技術を厚生労働大臣が表彰する「現代の名工」に選ばれた。ゆっくりと言葉を選びながら、鬼師という仕事と、菊間瓦への思いを語ってくださった。
新しい作品ができたと聞き、菊間にある渡部さんの工房を訪ねた。見せていただいたのは個人宅用の鬼瓦で、メインになる鬼飾りと、虎と龍の3体。目の前の鬼瓦の大きさと躍動感にまず驚くが、屋根に上がればこのサイズが自然なのだそうだ。
工房を囲む壁には、数多くの石膏型が棚に並べられている。これは鬼瓦のベースとなるもので、職人がそれぞれ手作りする。だから出来上がる鬼瓦は、おのずとその職人の“顔”になる。渡部さんの鬼瓦は、迫力がありながらもどこかやさしく見えた。
渡部さんは、今治市菊間町生まれ。20歳を過ぎた頃、鬼師であった父に弟子入りした。鬼師とは、厄除けを願う鬼瓦や飾り瓦を専門に作る職人だ。いわばその家の象徴を作る、重要な役割を担う。
「いい先輩に出会って今があると、私は思います。」と渡部さんが語るのにはわけがある。実は高校卒業後、別の仕事をした時期があった。若者なりの夢を見て、失敗し、挫折。そこから家業を継ぐことになった渡部さんを受け入れてくれたのは、師匠である父と、何かと手ほどきしてくれた先輩だった。
「暇があれば絵を描けと。何度も描いて、鬼瓦のバランスを頭に入れるよう教えてくれました。」と渡部さんが話すのは、水平が水(みず)、垂直が金(かね)という、鬼瓦独特の立体的な造形のことだ。鬼瓦を屋根にあげた時、無理な角度になればバランスが崩れる。本も資料もないその水・金のバランスを、ひたすら絵に描き、体に覚えさせた。
「10年くらいした時に、おもしろい仕事だと思いました。それは農業も一緒。種をまいて、数か月したら芽が出て、だんだん太って、それを買ってくれる人がいる。おもしろい仕事だと思います。」と渡部さんが語るのは、何もないところから形を作り上げるおもしろさ。どんな仕事にも通じる、続けたからこそわかる醍醐味だろう。
その技術が評価され、地元菊間の加茂神社や全国各地の寺社、城郭の鬼瓦も手掛けた渡部さん。「うれしかったのは、今治城の鬼瓦をさせてもらったこと。」と語ってくれた。その一方で、自分がしてもらったように、次世代へ伝統を継承していくべきだという思いもある。「現代の名工」という大きな賞をもらったことで、その思いはより深まっている。
菊間瓦の歴史は、750年前の鎌倉時代にさかのぼる。伊予の豪族・河野氏の城に菊間瓦を納めたところから始まったとされ、明治時代には皇居御造営の御用瓦を献納する栄誉も受けた。この菊間瓦発展の主な理由は、地理的な条件と、地元で採れる原料と燃料だ。
瀬戸内海に面した菊間は、海上交通に利点があった。できた瓦を船で京阪神方面へ運び、帰りには香川で原料の粘土を積んで帰る。粘りの強いさぬき土に、菊間で採れる五味土を6対4の割合で合わせることで、割れの少ない質の高い瓦になる。
また菊間には窯炊きの燃料となる松葉が豊富にあった。瓦の焼成後、松葉を炊いていぶす工程で表面に銀色の炭素膜ができる。これが「いぶし銀」と呼ばれる所以だ。また同じいぶしでも、成型時に磨くことで完成した瓦に美しい艶が生まれる。瓦の質もさることながら、この丁寧な磨きで菊間瓦の色は日本一とまで称された。
「今この年になって改めて、後世に残る鬼瓦を作るということは、すごい仕事だと思う。子や孫の代までみんなが見てくれるものを作るのだから、今考えたらいい仕事についたなと思う。」と、鬼師の誇りを語る渡部さん。だが、課題もある。
今では粘土瓦を葺くのは寺社仏閣がほとんどで、住宅では別の屋根材が一般的だ。最盛期には数十件あった菊間の瓦屋は3~4件に減り、鬼師は渡部さんを含めて4人になった。それでも、と渡部さんは続ける。「いい瓦は100年もちます。工法が変わり、重さは昔に比べ半分になりました。瓦の良さをもっと知ってもらえたら、鬼瓦や菊間瓦、町の大工さんも残っていくでしょう。」と力を込める。
日本では昔から良質の土が採れる地域で瓦が盛んに製造されてきた。雪や雨の多い地方では陶器瓦、格式を重んじる城郭や寺社では光沢の美しいいぶし瓦、その瓦に載る鬼瓦は北へ行くほど風雪に耐えるためおとなしく、南へ行くほど派手になる。こうして美しく耐久性に優れた瓦は、日本の気候風土と各地の文化を映して現代に伝えられてきた。
100年使える瓦と、技術を伝える職人という、当たり前に日本の暮らしに沿ってきた文化は、今見直される時にきている。「家は一生のうちに何軒も建てられるものではありません。だから、お客さんの思い入れのある鬼瓦を作りたい。」渡部さんの言葉が心に響いた。
菊間の加茂神社、渡部さんの手による鬼瓦