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今治で活躍している人にインタビュー

一級建築士 カモイケデザインラボ/凪ノ庭 矢野 一志さん

 今治と東京、2つの拠点を月に何度も往復する建築家。そう聞くと、バリバリと仕事をするさぞ忙しい人だろうと想像するが、お会いしてみるとまったくの正反対。矢野一志さんは、まるで鴨池海岸の海のようにおだやかだ。ゆっくりと丁寧に仕事への想いを語ってくださった。

丹下建築の記憶

 矢野さんの今治での拠点は、大西町の鴨池海岸沿いの一軒家。矢野さんの父が暮らした家だ。実は矢野さんは父と暮らしたことがほとんどない。「外国航路の船員だった父は子どもの頃からほとんど家にいたことがなかったんです」父の長期不在のため矢野さん一家は長らく家を構えることがなかったという。

 そんな生い立ちから、一家だんらんの象徴である家や居場所は、矢野さんにとって特別なものになった。子ども時代の矢野さんの居場所は、図書館と砂場だった。本が好きで、ジュール・ベルヌのSF小説を読んでは想像を膨らませ、砂場で秘密基地を作り、その空間の“断面図”の絵を描いていた。建築家らしい子ども時代とも思えるが、矢野さんによると建築家になった大きなきっかけは今治に生まれたことだという。

 少年時代に訪れた今治市役所の印象的な造形が、はっきり記憶に残っている。それが世界的建築家・丹下健三氏の設計であることを当時はまだ知らなかったが、中学生になり将来を考え始めた時に初めて建築家という職業があることを知り、志すようになった。

 残念だったのは地元に建築を学べる環境がなく、必然的に県外へ進学しなければならなかったことだ。しかしそのおかげで気付いたのは、瀬戸内の美しさは特別だということ。自分の心にある故郷の風景、家族で過ごした思い出の地に自分がデザインする建物を作りたいと思った。しかしそこには現実的な壁があった。大学を卒業したばかりの若者ができる建築の仕事は、当時の今治にはまだなかった。

形や思いを残す仕事 震災の経験

 設計事務所には、大きく分けて2つあるという。意匠やデザイン性を得意とするアトリエ系設計事務所と、大規模な建物を組織的に設計する組織系設計事務所だ。大学院卒業後、矢野さんは都内のアトリエ系建築設計事務所に就職し、経験を積んだ後に30歳で組織系設計事務所へ転職。将来今治で自分の建築事務所を立ち上げることを目指し資金を貯めようと考えた。

 そうして35歳で満を持して独立。仕事に邁進し、東京で順調にキャリアを重ねる一方、今治へのUターンという夢だけが実現しないことに閉塞感を感じていた。そんな時、東日本大震災で被災した福島県の災害公営住宅団地のプロジェクトに設計者として携わることになる。

 安易に新しいものを作るのではなく、あるものに付加価値を加えたり、古いものを残したり、形や思いを残すことは、矢野さんが仕事において最も大切にしていることのひとつだ。津波で家や家族を流された人々のためにと矢野さんなりに工夫を凝らそうとしたが「デザインはしなくていい」当初はそんな声もあったという。

 今も心に残っているのは、建物の周囲に植えられていた木のことだ。管理費削減のため伐採されると聞き、「復興住宅ですし、命ある木を切らないでほしい」そう自治体の担当者に訴えたが受け入れられなかった。しかしなぜか作業は延期になり、その後住民たちも自治体へ交渉した結果、木は残されることになった。立場は違えど思いは皆一緒なのだ。建物の完成後に地域の夏祭りに呼んでもらったことは忘れられない思い出だ。

 「それぞれ違う家族が新しい居場所でどう一緒に暮らしていくか、プロジェクトを通してずっとそのことを体験させてもらいました」と矢野さんは振り返る。復興五輪と呼ばれた東京オリンピックの選手村の設計にも携わり、家や居場所、地域の再生、震災からの復興という大きなテーマが一段落した時、やはり故郷へ帰ろうと思った。

地域をつなぐ居場所をつくる

 2019年、矢野さんは今治へ拠点を移すことを決め「カモイケデザインラボ一級建築士事務所」を立ち上げた。直後に新型コロナウイルス感染症が世界的に広がり、矢野さんの仕事も多くがストップしてしまうのだが、それをきっかけに今治と東京の2拠点で働くという新たな発想が生まれた。オンラインでつながればどこにいても仕事ができる、そういう流れに世の中が一気に転換。コロナ禍で私たちの生活は大きく変わったが、人々の働き方も変わった。

 矢野さんは今、鴨池海岸の家を仕事の拠点とするほか、一階部分を自身が設計してリノベーションし、“地域アーカイブプレイス”として今治滞在時に開放している。人と地域の小さな物語を紡ぐ場で、「凪ノ庭」という。鴨池海岸や大西など地域にまつわる書籍や矢野さんが選書した本などが並ぶ。

 ご近所の方をはじめ東京の知人、町おこしを志す若者、様々な人が凪ノ庭を訪れては、窓辺の鴨池海岸の風景を眺めながら何気ない会話を交わしたり、今考えていること、これからの想いを語り合ったり、それぞれの時間を過ごし、それぞれの場へ何かを持ち帰る。そんな場になっている。この凪ノ庭から、さまざまなアイデアが生まれているようだ。

 実は矢野さんは、経済産業省所管の国立研究開発法人 新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)のプロジェクトの委員として、脱炭素に向けた建材一体型の太陽光発電システムの研究開発とガイドライン策定に建築家として参加している。日本の各地域の風景を守るため野立てで設置するのでなく建物と一体化した新しい太陽電池の設置方法だ。そうした国家レベルの取り組みはきっかけがないとなかなか地域レベルで浸透しない。ならば両者をつなぐような意見交換を凪ノ庭でできないか。

 もうひとつは、日本の各地域で課題になってきている空き家問題のこと。たとえば空き家や使わなくなった部屋を利用して、地域アーカイブプレイスという考えに共感する人が他の地域で同じような場を開くのはどうだろう。増加する空き家が活用されたら、個性あるコミュニティがあちこちに生まれそうだ。

これからの生き方、働き方とは

 「僕の若い頃には働き方という言葉はなく、生き方をずっと考えてきました。今は働き方が生き方や暮らし方とつながっていて、選択肢が広がりましたね」そう語る矢野さんの表情は柔らかい。2024年の秋には凪ノ庭として初めて愛媛県美術館でのアートブックイベントにも参加した。現在東京ではホテルの設計デザインが進み、今治では四村地区で歯科クリニックが着工しているそう。もはや2拠点の距離の感覚はないようだ。

 若い頃にはできなかった形で今治での独立を果たし、地域の居場所を作った矢野さん。積み重ねた経験やキャリア、故郷への思い、そして今という時代、ようやくそれらのタイミングが合い実現できたことだろう。

 今治に生まれ、丹下健三に刺激を受けた少年時代の夢のスタートラインに矢野さんは今立ったところだ。「瀬戸内のこれからの風景や暮らしを描いていきたい」という。これからの時代は生きたいように、働きたいように、選択できる自由があると、矢野さんは若い世代へエールを送る。凪ノ庭は、その道を灯台のように照らしてくれるだろう。