今治の隠れた名所を、いまばりバリィさんが訪ねます
白砂青松の風光明媚な桜井海岸と、綱敷天満宮が鎮座する静かな漁師町。かつてこの桜井で大活躍した伊予商人たちの足跡をバリィさんがたどります。
桜井にやってきたバリィさん。今治の南東部、燧灘に面した美しい海岸線が広がる港町です。このあたりはエビやワタリガニがよくとれることで知られますが、今日の目的はおいしいものではありません。桜井から始まったビジネスのお話。この穏やかな桜井の町とビジネス?いったいどんなストーリーがあるのでしょうか。
その前に、桜井の町のシンボル・綱敷天満宮を訪ねてみましょう。かの菅原道真公が九州の太宰府へ流される途中、嵐にあって漂着したのがこの綱敷天満宮のある志島ヶ原(志島の浦)と伝わります。人々が漁網を丸く敷いてもてなしたことが綱敷天満宮の社名の由来となりました。受験シーズンには多くの受験生が学問の神様の元へ合格祈願に訪れ、また300本の梅が咲き乱れる梅の名所としても今治市民に親しまれています。
この桜井から大きな発展を遂げたものをご存知でしょうか。そう、月賦販売です。商品の代金を一定期間の月払いに分割する月賦販売は、現在のキャッシュレス決済の代表格であるクレジットカード販売の先駆けといえるもの。時代の最先端ともいえるビジネスのアイデアが、どうしてこの静かな港町から始まったのでしょうか。
話は江戸時代にさかのぼります。当時半農半漁の貧しい農民であった桜井の人々は、暮らしを立てるため「けんど」を作って売ることを思い立ちます。「けんど」とは、葛などで編んだ“ふるい”で、穀類の皮と実を分けるために使われていた農具です。試しに周辺の農家へ行商を始めると、これが大当たり。中国地方や九州、さらに紀州へと船で販路を広げる「けんど舟」の行商へと拡大します。当時の桜井は幕府の天領地でしたから、御用米の運搬のため桜井港が瀬戸内の交通の拠点として発展していたことも、けんど舟行商を後押ししました。
さて、行商先の紀州ではけんどの材料となる木材の調達もしていました。紀州黒江といえば漆器の産地、そこで賢い桜井の商人は考えました。「黒江で漆器を仕入れて九州で売り、九州では唐津や伊万里の陶器を仕入れて関西で売ればいい」こうして漆器を運ぶ行商船「椀舟」による、なんとも無駄のない商売が始まります。
漆器は陶器よりも軽く、しかも高価で利潤が上がるのがメリットです。さらに「紀州徳川様のご産物を披露に参上しました」を謳い文句に売り歩くと、先々で喜ばれて売り上げも相当だったとか。この椀船行商で成功を収めると多くの桜井商人たちが漆器専業となり、もっと売り上げを延ばすために新たなアイデアを思いつきます。「わざわざ仕入れにいかずとも、桜井で漆器を作ればより利益が上がる」なんと合理的!こうして紀州黒江をはじめ、全国の漆器の産地から職人を招いて誕生したのが今治の伝統工芸品、桜井漆器です。
でもなぜ高価な漆器をそんなにも売ることができたのでしょうか。そのわけは支払いの仕組みにありました。当時の主な販売先は農村でしたから、現金一括で販売していたものを秋の収穫後に支払う掛け売りにすることで負担を軽減したのです。それが次第に盆と年末に支払う節季払い、月賦販売方式へと変化していきました。こうして我が国初の月賦販売というビジネスの形は、漆器の販売をきっかけに桜井の地に生まれたのでした。それはやがて東京や大阪で洋服や家具などを販売する月賦百貨店へと進化していくのです。
けんど作りから始まり、桜井の港から行商に漕ぎ出していった桜井の人々。時代の波に乗り、桜井漆器を生み出し、月賦販売で時代をリードしました。今に残る「伊予商人」という言葉は桜井の商人のことをいいます。彼らのたくましい行動力と機知に富んだアイデアは、今を生きる私たちにも多くの学びがありそうです。船の形のお財布を愛用するバリィさんも、伊予商人にあやかりたいね。
綱敷天満宮の前に広がる志島ヶ原は、九州太宰府へ配流される際、この付近で嵐にあった菅原道真公が「なんとか陸地にたどり着きたいものだ」と桜井の浜を目指したことから「志島」と名付けられました。その近くには道真公が濡れた衣を乾かしたという「衣干岩」も残されています。
周囲約11ヘクタールにわたり3000本とも言われるアカマツやクロマツの老樹が茂る景勝地として国の名勝にも指定される志島ヶ原。歴史に思いを馳せながら風情ある海岸を散策してみるのもおすすめです。
綱敷天満宮の境内に「月賦販売発祥記念の碑」があるのはご存知でしょうか。高価な漆器の販売促進のために考え出された月賦販売は、丸善田坂商店の田坂善四郎が始めたといわれます。父は桜井で椀舟行商を行っていた商人で、善四郎も行商に出て商才を磨き、独立すると従来の節季払いから月掛け売りという割賦販売を始めます。これが善四郎が月賦販売の創始者といわれる所以です。
善四郎の元で学んだ多くの商人たちが独立して月賦百貨店へと変化していくことになるのですが、ある調査では、ピーク時の1960年代には全国に700店あまりあった月賦百貨店のうち9割以上が伊予商人とその関係者だったとか。月賦販売は、造船、今治タオルに並ぶ立派な今治の産業と言ってもいいでしょう。